中国の偉人に学ぶ、尊敬されるリーダーのスキルとは【其の二】

今日の主役は紀元前8世紀、春秋時代の人。
中国歴代でも最高位と評される政治家。
三国志で有名な諸葛孔明が憧れた人物。

管仲(かんちゅう)。

彼は斉の国の宰相として、主君の桓公を春秋時代初の覇者に押し上げました
(世界史を専攻した方は、”春秋の五覇“でおなじみですね)。

また歴史上、いち早く富国強兵の概念を打ち出し実践しました。

そして彼の
「倉廩(そうりん)満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱(えいじょく)を知る。」
という言葉はあまりに有名です。

今回は前回の『』の続きです。管仲のもうひとつ有名な言葉

「与うるの取りたるを知るは、政の宝なり」

これについて考えてみましょう。

 

取りたければ、まず与えること

こんなことがありました。

斉の君主・桓公は国内で強盗が多発していたため、その取り締まり方法について管仲に尋ねました。

管仲はこう答えました。

「いくら法を厳しくしても一時的に強盗は減るでしょうが、また法の網をかいくぐって強盗は増え、無くなりません。それよりも人々を豊かにすれば、おのずと強盗も減るでしょう。」

これは、飢えている人間に礼儀や道徳を説いても無駄である。人々の生活にゆとりが出てくれば、おのずと道徳意識も高まり、人のものを盗むものなどいなくなると説いたもので、斉はその後、産業を興し奨励することに邁進した結果、人々は道端に落ちているものすら盗まなくなったといわれています。

 

これがつまり、

「倉廩(そうりん)満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱(えいじょく)を知る。」

という言葉です。

 

またこんなことがありました。

斉は隣国である魯の国とたびたび戦争をしていました。
桓公の在位5年目の戦争で斉は魯に大勝し、魯は遂邑の地を献上するということで和議を求めました。
その調印の儀式の最中、魯の将軍・曹沫は突然、桓公のもとに飛び込んでヒ首(ひしゅ。短刀のこと)を突きつけ、殺されたくなければ、遂邑の地の献上は無かったことにしろと脅迫します。

桓公はやむを得ず、その通りにしました。

帰国後、桓公の怒りは収まりません。
あんな和議など認めるわけにはいかない。
再び攻め込み、曹沫の首をはねねばと怒髪天のお怒りようでした。

しかし管仲は反対します。

「確かに脅迫されて、無理やり結ばされた和議ではあります。
しかし約束は約束です。
それを破るのは道義に反します。
その結果、桓公は平気で約束を破る男だと、周囲から信用されなくなります。」

桓公は管仲になだめられ、しぶしぶその言に従いました。

しかし、このいきさつが瞬く間に天下に広まりました。

すると各国の諸侯から、そんな無茶な約束すら守る桓公は信義に厚い人物であると評判になって、各国から斉と手を結びたいという機運につながり、諸侯が一堂に桓公の下に集い、桓公を盟主とする会盟を結びました。

春秋の覇者誕生です。

管仲が桓公の治世でこのようなことをたびたび行い、斉を中華一の大国に押し上げました。

 

管仲の政治の根本は、

”先に取ることを考えてはならない。取りたいと思うのであれば、先に与えよ。これこそが政治の肝である。”ということです。

 

これが与うるの取りたるを知るは、政の宝なりです。

 

部下から信頼を得るためには

もし部下から信頼してほしいと思うなら、
一方的に相手に要求したり、「部下から信頼されていない」と嘆いたりする前に、
まず自分が先に相手を信頼してあげること

 

もし誰かに愛されたいのであれば、
自分から先に愛すること。

 

自ら動かず、ひたすら相手に求めるだけでは、ただの傲慢な人でしかなく、何も変わらない。
自分が先に与えることで、部下から信頼され、相手から愛される存在になる。

それすなわち、”与えることが、取ることにつながる”ということです。

 

もし今、人間関係や仕事で悩んでいる方がいらっしゃるなら、自分の考え方を変えてみることで、もしかすると突破口が見つかるかもしれませんね。